巷に聞く百合短編集である
入間人間 少女妄想中。
を読みました。
百合でした。ええ。
表紙が百合業界に大旋風を巻き起こしている仲谷鳩先生なことにつられてホイホイ買ってしまったのですが、実際百合でした。
しかしなんと言いますか、百合姫作品のようにはっきりと「「百合」」と主張するような空気はなく、振り返ると百合だった、そんな風に感じた話でした、
百合百合言いすぎて何を指しているのかはっきり分からなくなりそうですね。
一言で言います。
女と女の感情しかない
これです。
百合姫、つぼみ作品のような目線で見ようとして、真っ先に違和感を感じたのはここです。
基本、物語っていうのは、連続した日常の切り取りでできていると思います。
社会人百合だったら、日々の業務に追われる中で、学生百合だったら、学生生活の中で。
俗世という川の中できらりと光る「何か」。それを見つける「過程」「瞬間」を切り取ったもの。365日の中における1日。そういう風に出来ています。
でも、少女妄想中。は少し違いました。
例えば、冒頭の作品である「ガールズ・オン・ザ・ラン」。
最高速で走った瞬間のみ現れる「彼女」に、なんとかして追いつこうとする話。
幼少期に出会い、そこからずっと、たとえ社会人になっても追いかけるのですが、本当に「彼女」を追いかけることしか主人公の頭にはありません。部活に入ろうが、どこかに入社しようが、「彼女」に会うことしか考えてません。ただ走り続けます。
クラス内ヒエラルキー、部活をする意義、モラトリアム、会社における立ち位置、果てには自分の感情を共有する第三者――友人さえも、この物語を構成する上で、必要とされていません。
一人の女と、その子が意識している女。
この二つのみで世界が出来上がっています。
1日の中の1日、10日の中の10日、彼女に対する感情以外の人間的要素はきれいに切り離されているのです。
ただ、なんとなく、気になる。頭から離れない。行き先の分からないあやふやな感情を抱きながら、何ページも話は綴られていく。何とも不思議な感覚でした。
最近の百合作品でスポットが当たる、女が女に対する"""強い感情"""。
その真逆を行く、萌芽がゆるゆると伸びていくような、ごくちいさな感情。
「これ百合か……? 百合か……百合……うん、百合!」
少女妄想中。はそんなふわっとした話でした。
無限に広がる百合作品の、新たな一面をかいま見たように思えます。
穏やかな生活を望む穏健派百合厨も、熾烈な関係性を求める過激派百合厨も、ぜひ読んでみてください。