あなぐらのなかにいる

感情のことをつらつら話します

言葉の出力に消化不良のような何かを感じるという話

 

※こちらの記事は他の記事と毛色が大きく違います。ご注意ください。

 

 

 

 

  私は日頃、文字を綴ること、言葉を発することに消化不良のような、正体の見えない不快感に囚われていた。SNSに文章を投稿してもどこか他人の文章を見ている気持ちになり、日常で誰かと――仮に身内との会話であっても、30分話せば疲労を実感する。これではいかん、とあれこれもがき、会話術や作文方法の本にも手を伸ばしてみたが、果たして根本的解決には至らなかった。

 そんな中、ある日こんな記事を目にした。

私が文字を単方向に並べることについて - 思考整理ノート(Flucta) - カクヨム 

 文字を書き、言葉を綴る過程での疑問、問題点について考察していく記事だ。記事で述べている問題提起について私も考えてくにつれ、私が抱えている悩みに、一つの光を見たように感じた。

 以下の論述は、上記記事の中で問題としている、発話の不自由が起きる一因――文字を単方向に並べることに焦点を当て、分解して考えたものである。

 まず、記事で挙げている問題点について確認する。

 

>「紙とペン」は話すことに似ている。というのも、話す場合も、文単位での発話内容が事前に組みあがっている必要があるからだ。つまり何が言いたいかというと、書くことそのものではなく、書くことが話すことに及ぼす影響について懸念しているのである。筆者は、近頃話すことに不自由を感じており、日常「PCとキーボード」の書き方ばかりしていることが一つの原因なのではないかと考えているのだ。例えば、組み立てることに時間をかけすぎて話し始めるまでが長くなっていることや、「あ、待って、さっきの無し」といった消しゴムのような発言をすることが有意に増えている。

 

  整理した文章を会話に用いようとすると、なぜか言葉をうまく引き出せない、という事象は、多少なり散見する出来事だろう。予め台本があると、スピーチや面接で喋れるけど、台本が無い、アドリブだらけの話が苦手――のようなケースに近いかもしれない。

 では、発話の不自由のような現象はどうして起こるのだろうか。逆に、不快感なく会話を続けられる時との違いは何だろうか。

 問題をもう少し分解した結果、問題点としている、発話の不自由というのは、「PCで発信する整理された文章のレベル」と、「現実の会話で必要最低限な文章のレベル」が混ざった結果起きる、エラーのような現象ではないか? と考えた。

  「整理された文章」……いわゆる美文、リズムの良い文章というのは、インターネット、映画、書籍の文章に親しむ人ほど、脳に蓄積されていく。人は会話の中で、記憶に蓄積された文章から適切な言葉を引っ張りだそうとする。だが、複雑な文章を選びその場で理路整然と話そうとすると、当然ながらエラー(あるいはどもる等の処理落ち)を起こすだろう。会話の苦手な人というのは、思考能力が貧困な訳でなく、寧ろ言葉の選択肢が無数に溢れかえっているからこそ会話が大変、というケースが相当数ではないだろうか。(この「思考能力が貧困な訳でない」と解っているか否かが、世間一般のコミュニケーション能力云々の認識に大きなズレをもたらしている一因だと考えたが、その論述は本記事では割愛する)

 次に、「現実の会話で必要最低限な文章」だが、私はこれをシンプルに捉えた。

 「了解しました」「ありがとうございます」といったに定型文に、自分の所感を付け加える感じだ。もっとレベルを落としていいなら、「ウケる」「マジ卍」「草生える」といったスラングも入ってくるだろう。デジタル媒体であれば、インスタントに感情表現できるスタンプもある。

 実際、ギャルの会話は「ウケる」「マジ?」「それな」ベースで一時間以上話せる、なんて話もある。会話に使用する文章のメモリを極力少なくすることで、長時間の会話を成り立たせているのだろう。

 上記の例はやや極端だが、必要最低限の会話を成り立たせるには、そこまで多くの言葉を用いなくていい、多少文の構造が不完全でもいいことが分かる。

 以上の二点を総合して考えると、発話のエラーを抑えるーー「文字を単方向に並べる」ことは、「複雑な言葉は抑え」、「表現をスマートにする」ことではないだろうか、と私は考えた。

 

 以上が、発話の不自由の一因――文字を単方向に並べることについて分解した結果である。

 Flucta氏の記事が現状、あくまで問題の出発点であるように、いち読者として考察を立ててみた。

 世間では適切な言葉のやり取りを、「言葉のキャッチボール」なんて言う。会話術、文章術ではそのボールの適切な投げ方について教えてくれる。だが、肝心なのは「自分のボールを投げるフォーム、○○がおかしくね?」と根底にある個々人の問題を明確化し、仮説と実証を重ねることだ。正体の見えない違和感に実体を与えることで、よりフォームの整ったボールが投げられるのではないだろうか。

 私の立てたこの論述はあくまで叩き台の一つであり、指摘すべき点、課題は残っている。また、文字を読み、文字を書き、会話を重ねる過程で、別の疑問、違和感も噴出するだろう。そうした時は、以前のように窒息しそうなくらい喘ぎもがくのではなく、正面から向き合い、思考を重ねていきたい。

 この記事を読んだ、言葉に関する何かしらの不自由・不快感を抱く人にとっての考察の一助となったら幸いである。