百々雑記

感情についてつらつらと

幼女になりたいと思った話

幼女になりたい。

ふと思ったのが、桜が散り始めた4月の中頃、公園の隅にちょこんと立っている、小学生くらいの女の子を見たときである。1年ほど前の話だ。

こういう書き出しにすると不純な動機を想像するかもしれないが、そんな事は決して無い。──いや、同年代の女の子たちが公園でワイワイとサッカーとしている中、あの子は無関心を貫いている。その光景は百合厨的にエモいと思っていたが。

それはさておき。

女の子は桜の木の前に立ち、黙々とスケッチブックに鉛筆を走らせていた。すぐ近くで行われているサッカーを意にも介さず、あの子かわいい~と言いながら通り過ぎていく女子大生の声も耳に届かず。

ただ熱心に桜の木を観察し、線を描くすることに集中している。

その姿が眩しかった。かつての自分は、あの子のように、友達付き合いすらかなぐり捨てて熱中できるものがあっただろうか。なんておぼろげな記憶を巡らせながら、スーツ姿の疲れ切った自分を省みたのだった。


幼女に──子どもになりたい、と言ったが、厳密に言うと、「子どものような目線を取り戻りたい」のである。物事をシンプルに捉えていた、純粋無垢だった頃の視点を取り戻したいのだ。

例えばの話だ。自分も同じように桜の木の前に立ったとする。1分間、ぼうっとだ。

そうした時、読者の方々はどんなことが頭に浮かぶだろうか。


桜が散りゆく、季節の流れだろうか。

段々と気温が温かくなってきた実感だろうか。

新年度を迎えた、社会の新しい風だろうか。


自分の場合は、「そんなことより帰って資格の勉強しろよ」である。多分疲れている。寧ろその木の下で一息ついた方がいい。

花より団子、とはよく言ったものだが、人の視界は自分の課題、目的以外見えないようになってくる。昔流行った脳内メーカーのように、脳のリソースの大半は目の前のものとは別の何かに割かれている。雑念、と言い換えてもいいかもしれない。無論、大人になっても目の前の事象をシンプルに受け取ったり、一つの物事に熱心に取り組む人はいる。その人はきっと、脳のリソースに──自分に余裕のある人だ。しかし20数年生きてくると、余裕のある人間として出来上がるのはまこと難しいと思い知らされる。明日のタスクやら責任感やら、逃げても逃げても付きまとうことは沢山ある。これからも増えていくことだろう。

そんな、脳髄まで俗世に染まってない頃の真っ直ぐな目線を、あの4月の少女に見たのだ。世間体も、社会的責任も考えず、ただ目の前の好きなものを一心に追い求めた目を。そして、自分の目に映る世界は、10年前より複雑になっていると思い知らされたのだ。

実際のところ、「子どものような目」を取り戻すことは難しい。大事なことも余計なことも知ったからこそ大人であり、その情報を土台にして生きているからこそ大人なのだ。偉くもなく、惨めでもない、ただ、自然と成り行く現象だ。結局のところ、複雑化した現実になんとか折り合いをつけて、死ぬまで付き合っていくしかないらしい。

だから、自分に出来ることなんて、せいぜい祈るばかりだ。桜の木の前に立ち、一心不乱に鉛筆を走らせていた少女が、その真っ直ぐな感性を保ったまま、健やかに育つことを。この先、何枚も描き上がるであろうスケッチが、大人になった時の財産となっていることを。

そう願った、とある春の一日だった。

 

 

8/22発売の小説の神様二巻が出るので、小説の神様一巻を紹介する

  先日、私の大好きな作品の続刊発表があり、歓喜に震えました。

 

 


    相沢沙呼先生の作品を知ったのは「小説の神様」からで、繊細で柔らかな文のタッチにぐいぐいと引き込まれていきました。

  その続刊の発売に際して、「小説の神様」について説明、紹介しようというのが今回の記事です。これを機にみんな相沢先生の作品読んで。


・あらすじ(講談社タイガ文庫から引用)

  僕は、小説の主人公のなり得ない人間だ。学生で作家デビューしたものの、発表した作品は酷評され、売り上げも振るわない……。物語を紡ぐ意味を見失った僕の前に現れた、同い年の人気作家・小余綾詩凪。二人で小説を合作するうち、僕は彼女の秘密に気がつく。“彼女の言う、小説の神様”とは?  そして合作の行方は?  書くことでしか進められない、不器用な僕たちの先の見えない青春!

 

  「小説の神様」は一言で表すなら、所謂クリエイター側の物語。

  「SHIROBAKO」や「ハケンアニメ!」、「こみっくがーるず」など、創作者側の物語は、今や大分普及しつつあるジャンルです。そんな「小説の神様」もその一つです。

  何よりこの作品の特徴であるのは、「売れない作家の視点」で、一般文芸の小説家の苦悩がギッシリと詰まった作品になっています。

  作者自体が、小説シリーズや原作の打ち切りを何度も経験しているせいか、主人公から発せられる嘆き、嫉妬はどこまでも生々しい。

  自分の物語を待っている読者なんて居ない、小説に人を動かす力なんてない、売れない小説になんの価値がある?

  趣味や同人ではない、生きるか死ぬかの商業で食っているが故の事情、葛藤が濃密に描かれていました。正直、すごく重い。読んでてつらい。

 

  ですが、それでも、この物語の目標は、「小説を書くこと」……ひいては「小説を書く意味を見つける」ことです。

  ヒロインである小余綾詩凪が、「小説には人を動かす力がある」と何度も叱咤するように。「小説を書いてみたい」と言う後輩の成瀬秋乃を巡り、ありのまま物語を書くべきか、かける言葉に迷い、思索したように。

  千谷のように内気な人間が物語の主人公たり得ないとしても、そんな自分の書く物語が多くの人にウケないとしても、彼は小説を書く道を選んだ。それはなぜか?  詩凪の言うような力は、光は、執筆の先にあるのだろうか?

  小説を、物語を愛する人に、是非読んでいただきたい一冊です。

 

  そして8月22日に出る続刊も読んで……

 

小説の神様 (講談社タイガ)

小説の神様 (講談社タイガ)

 

 

言葉の出力に消化不良のような何かを感じるという話

 

  私は日頃、文字を綴ること、言葉を発することに消化不良のような、正体の見えない不快感に囚われていた。SNSに文章を投稿してもどこか他人の文章を見ている気持ちになり、日常で誰かと――仮に身内との会話であっても、30分話せば疲労を実感する。これではいかん、とあれこれもがき、会話術や作文方法の本にも手を伸ばしてみたが、果たして根本的解決には至らなかった。

 そんな中、ある日こんな記事を目にした。

私が文字を単方向に並べることについて - 思考整理ノート(Flucta) - カクヨム 

 文字を書き、言葉を綴る過程での疑問、問題点について考察していく記事だ。記事で述べている問題提起について私も考えてくにつれ、私が抱えている悩みに、一つの光を見たように感じた。

 以下の論述は、上記記事の中で問題としている、発話の不自由が起きる一因――文字を単方向に並べることに焦点を当て、分解して考えたものである。

 まず、記事で挙げている問題点について確認する。

 

>「紙とペン」は話すことに似ている。というのも、話す場合も、文単位での発話内容が事前に組みあがっている必要があるからだ。つまり何が言いたいかというと、書くことそのものではなく、書くことが話すことに及ぼす影響について懸念しているのである。筆者は、近頃話すことに不自由を感じており、日常「PCとキーボード」の書き方ばかりしていることが一つの原因なのではないかと考えているのだ。例えば、組み立てることに時間をかけすぎて話し始めるまでが長くなっていることや、「あ、待って、さっきの無し」といった消しゴムのような発言をすることが有意に増えている。

 

  整理した文章を会話に用いようとすると、なぜか言葉をうまく引き出せない、という事象は、多少なり散見する出来事だろう。予め台本があると、スピーチや面接で喋れるけど、台本が無い、アドリブだらけの話が苦手――のようなケースに近いかもしれない。

 では、発話の不自由のような現象はどうして起こるのだろうか。逆に、不快感なく会話を続けられる時との違いは何だろうか。

 問題をもう少し分解した結果、問題点としている、発話の不自由というのは、「PCで発信する整理された文章のレベル」と、「現実の会話で必要最低限な文章のレベル」が混ざった結果起きる、エラーのような現象ではないか? と考えた。

  「整理された文章」……いわゆる美文、リズムの良い文章というのは、インターネット、映画、書籍の文章に親しむ人ほど、脳に蓄積されていく。人は会話の中で、記憶に蓄積された文章から適切な言葉を引っ張りだそうとする。だが、複雑な文章を選びその場で理路整然と話そうとすると、当然ながらエラー(あるいはどもる等の処理落ち)を起こすだろう。会話の苦手な人というのは、思考能力が貧困な訳でなく、寧ろ言葉の選択肢が無数に溢れかえっているからこそ会話が大変、というケースが相当数ではないだろうか。(この「思考能力が貧困な訳でない」と解っているか否かが、世間一般のコミュニケーション能力云々の認識に大きなズレをもたらしている一因だと考えたが、その論述は本記事では割愛する)

 次に、「現実の会話で必要最低限な文章」だが、私はこれをシンプルに捉えた。

 「了解しました」「ありがとうございます」といったに定型文に、自分の所感を付け加える感じだ。もっとレベルを落としていいなら、「ウケる」「マジ卍」「草生える」といったスラングも入ってくるだろう。デジタル媒体であれば、インスタントに感情表現できるスタンプもある。

 実際、ギャルの会話は「ウケる」「マジ?」「それな」ベースで一時間以上話せる、なんて話もある。会話に使用する文章のメモリを極力少なくすることで、長時間の会話を成り立たせているのだろう。

 上記の例はやや極端だが、必要最低限の会話を成り立たせるには、そこまで多くの言葉を用いなくていい、多少文の構造が不完全でもいいことが分かる。

 以上の二点を総合して考えると、発話のエラーを抑えるーー「文字を単方向に並べる」ことは、「複雑な言葉は抑え」、「表現をスマートにする」ことではないだろうか、と私は考えた。

 

 以上が、発話の不自由の一因――文字を単方向に並べることについて分解した結果である。

 Flucta氏の記事が現状、あくまで問題の出発点であるように、いち読者として考察を立ててみた。

 世間では適切な言葉のやり取りを、「言葉のキャッチボール」なんて言う。会話術、文章術ではそのボールの適切な投げ方について教えてくれる。だが、肝心なのは「自分のボールを投げるフォーム、○○がおかしくね?」と根底にある個々人の問題を明確化し、仮説と実証を重ねることだ。正体の見えない違和感に実体を与えることで、よりフォームの整ったボールが投げられるのではないだろうか。

 私の立てたこの論述はあくまで叩き台の一つであり、指摘すべき点、課題は残っている。また、文字を読み、文字を書き、会話を重ねる過程で、別の疑問、違和感も噴出するだろう。そうした時は、以前のように窒息しそうなくらい喘ぎもがくのではなく、正面から向き合い、思考を重ねていきたい。

 この記事を読んだ、言葉に関する何かしらの不自由・不快感を抱く人にとっての考察の一助となったら幸いである。

「同居人の美少女がレズビアンだった件」を読んで、自分の幸福って何よって考えた話

 最近、この本を読みました。

同居人の美少女がレズビアンだった件。 (コミックエッセイの森)

同居人の美少女がレズビアンだった件。 (コミックエッセイの森)

 

 レズビアンという性に関わる、様々な出来事を、著者である小池みきさんの視点を通じて描いていく話だ。

絵がデフォルメこそされているが、レズビアンであること、LGBTにまつわる法制度のこと、そして、牧村さん自身が抱える悩みはずっと続いてきたものであり、深刻なものだった。「牧村さんと森ガめっちゃ綺麗だな~」「みきさんがまきむぅ羨む気持ちわかるわ~」なんて漫画として楽しみながらも、自分の中で考えが大きく変わっていくのを、感じた一冊だった。

 

 

他の人が幸せになっている、そんな光景が好きだ。

関心を持つ人の幸福ほど喜ばしいものはなく、いつかは自分も幸せになりたいと思えるからだ。

それ故に、私は既婚スレッドの馴れ初め話を読み漁ったり、エッセイにも目を通したりしている。

紆余曲折して、悩んで、パートナー二人で辿り着いた答えを知り、感傷に耽る。

その感情自体は悪くないのだろう。けれど、根本的に、己の深い部分が、何か解消されないままでいた。

そんな中、前から気になっていたこの本をようやく手に取ることが出来た。そして、読み終えた時には、すとんと憑き物が落ちたような気分だった。

この話は、『「レズビアン」である以前に、「牧村朝子」だった!』 という話だ。つまり、自分をカテゴライズすることをやめたのだ。

この本であれば、牧村朝子さんと森ガールだから結ばれたことであり、レズビアンだから結ばれた、とは違う。

 

繰り返しになるが、私は、遠目から人の幸福を見ては、「自分も同じようになりたい」と思っていた。きっと、恋愛をしている人は、自分に無い素敵なものを持っていて、きっとその自分に無いものを手にすることが出来れば、幸せになれるのだろう、と。

けど、それは不可能なのだ。そもそも、恋愛というのは、お互いの個性、人格を理解し合って成立するのだから。カップルが手にした幸福は、そのカップルだけの、唯一無二のもの。自分は恋愛なんてしたことがない! 彼女が居る人が羨ましい! 羨ましい! とただ我が身を省みず、周りを見て嘆くだけでは、そりゃ寄る幸福も寄ってこないというものだ。

結局のところ、僕には僕という人間と、知り得た人との繋がりの中でしか恋愛が出来ないのだ。「あの人みたいに」……なんてことはあくまで憧れの中でしかない。

牧村さんがそうであったように、この先、自分という一人の人間を受け入れ、自分が何者であるか向き合う必要があるのだろう。「オタクだから」、「人見知りだから」という意識を捨てて。でないと、目の前の人物にすら誠実に向き合えないはずだから。

 

なんというか、書けば書くほど自分の考えの未熟さと文の稚拙さを思い知っている最中ですが、それも一つの経験だと思い、公開します。この本から元気と勇気を貰ったということも書き留めておきたかったので。

また読み返した時、「そんなこともあったなぁ」と未来の自分がもう少し前に進んでいることを期待します。

 

入間一間 「少女妄想中。」は実際百合だった

巷に聞く百合短編集である

入間人間 少女妄想中。

 

少女妄想中。 (メディアワークス文庫)

少女妄想中。 (メディアワークス文庫)

 

 

を読みました。


百合でした。ええ。
表紙が百合業界に大旋風を巻き起こしている仲谷鳩先生なことにつられてホイホイ買ってしまったのですが、実際百合でした。

しかしなんと言いますか、百合姫作品のようにはっきりと「「百合」」と主張するような空気はなく、振り返ると百合だった、そんな風に感じた話でした、
百合百合言いすぎて何を指しているのかはっきり分からなくなりそうですね。

一言で言います。

 

女と女の感情しかない

 

これです。

百合姫、つぼみ作品のような目線で見ようとして、真っ先に違和感を感じたのはここです。

基本、物語っていうのは、連続した日常の切り取りでできていると思います。
社会人百合だったら、日々の業務に追われる中で、学生百合だったら、学生生活の中で。
俗世という川の中できらりと光る「何か」。それを見つける「過程」「瞬間」を切り取ったもの。365日の中における1日。そういう風に出来ています。

でも、少女妄想中。は少し違いました。

 

例えば、冒頭の作品である「ガールズ・オン・ザ・ラン」。

最高速で走った瞬間のみ現れる「彼女」に、なんとかして追いつこうとする話。
幼少期に出会い、そこからずっと、たとえ社会人になっても追いかけるのですが、本当に「彼女」を追いかけることしか主人公の頭にはありません。部活に入ろうが、どこかに入社しようが、「彼女」に会うことしか考えてません。ただ走り続けます。

クラス内ヒエラルキー、部活をする意義、モラトリアム、会社における立ち位置、果てには自分の感情を共有する第三者――友人さえも、この物語を構成する上で、必要とされていません。


一人の女と、その子が意識している女。
この二つのみで世界が出来上がっています。


1日の中の1日、10日の中の10日、彼女に対する感情以外の人間的要素はきれいに切り離されているのです。

ただ、なんとなく、気になる。頭から離れない。行き先の分からないあやふやな感情を抱きながら、何ページも話は綴られていく。何とも不思議な感覚でした。

 

最近の百合作品でスポットが当たる、女が女に対する"""強い感情"""。

その真逆を行く、萌芽がゆるゆると伸びていくような、ごくちいさな感情。

「これ百合か……? 百合か……百合……うん、百合!」

少女妄想中。はそんなふわっとした話でした。

 

無限に広がる百合作品の、新たな一面をかいま見たように思えます。

穏やかな生活を望む穏健派百合厨も、熾烈な関係性を求める過激派百合厨も、ぜひ読んでみてください。

あなぐら日記 first

あなぐら団子です。その辺に転がっている百合厨やってます。

何の魔が差したのか、はてなブログなるものを始めてみました。

いやなんでしょうね、ツイッターという文明が今一つ自分に合ってなかったのかも知れませんね。

大多数の人に見られるツールでありながら、結局は内輪のニーズに応えるように立ち回ることが必要みたいな。

いやそれはフォローが沢山の人の話であって、自分みたいなそれこそ内輪で完成していたツイッターアカウントには別の話なのやもしれませんが。

何が言いたいかと言えば、発言するたび、一言一言を吟味して抑え込みながら発言している感じがして若干疲れたんだと思います。これは身体に毒ですね。まさにこんな世の中じゃポイズン。

という訳で、自分の中に溜まった何かを吐き出すツールとして適当に書き殴ると思います。なあに、ツイッターでは道化を演じ、芸人やってる人間だ。不特定多数をみだりに傷つける発言はしませんよ。多分。

これをそもそも見る人が居るか分かりませんが、ブログってそんなものでしょう。ツイッターでフォローしている方がこれ見てたら……まあ適当に聞き流してください。うん。

推敲とかしてないし見返したら相当アレな気がするけど、それも日記の味なんですよ(言い訳)

さて、そもそもの問題として、今現在、これを書いている時間が朝なんですよね。早速日記としての定義がブレつつありますね。

午後から就活のアレコレがあるんですが、スーツ着ながら書いてます。手元に鏡がありますが多分シュールなので見たくないです。シュウカツ!なんておどけてみたくなる人間の気持ちが少しわかったような気がします。

多分気まぐれなんで飽きるかもしれないし不定期でしょうが、ツイッターでは書かん事適当に書いてることは変わらんと思います。それでは。