百々雑記

感情についてつらつらと

「同居人の美少女がレズビアンだった件」を読んで、自分の幸福って何よって考えた話

 最近、この本を読みました。

同居人の美少女がレズビアンだった件。 (コミックエッセイの森)

同居人の美少女がレズビアンだった件。 (コミックエッセイの森)

 

 レズビアンという性に関わる、様々な出来事を、著者である小池みきさんの視点を通じて描いていく話だ。

絵がデフォルメこそされているが、レズビアンであること、LGBTにまつわる法制度のこと、そして、牧村さん自身が抱える悩みはずっと続いてきたものであり、深刻なものだった。「牧村さんと森ガめっちゃ綺麗だな~」「みきさんがまきむぅ羨む気持ちわかるわ~」なんて漫画として楽しみながらも、自分の中で考えが大きく変わっていくのを、感じた一冊だった。

 

 

他の人が幸せになっている、そんな光景が好きだ。

関心を持つ人の幸福ほど喜ばしいものはなく、いつかは自分も幸せになりたいと思えるからだ。

それ故に、私は既婚スレッドの馴れ初め話を読み漁ったり、エッセイにも目を通したりしている。

紆余曲折して、悩んで、パートナー二人で辿り着いた答えを知り、感傷に耽る。

その感情自体は悪くないのだろう。けれど、根本的に、己の深い部分が、何か解消されないままでいた。

そんな中、前から気になっていたこの本をようやく手に取ることが出来た。そして、読み終えた時には、すとんと憑き物が落ちたような気分だった。

この話は、『「レズビアン」である以前に、「牧村朝子」だった!』 という話だ。つまり、自分をカテゴライズすることをやめたのだ。

この本であれば、牧村朝子さんと森ガールだから結ばれたことであり、レズビアンだから結ばれた、とは違う。

 

繰り返しになるが、私は、遠目から人の幸福を見ては、「自分も同じようになりたい」と思っていた。きっと、恋愛をしている人は、自分に無い素敵なものを持っていて、きっとその自分に無いものを手にすることが出来れば、幸せになれるのだろう、と。

けど、それは不可能なのだ。そもそも、恋愛というのは、お互いの個性、人格を理解し合って成立するのだから。カップルが手にした幸福は、そのカップルだけの、唯一無二のもの。自分は恋愛なんてしたことがない! 彼女が居る人が羨ましい! 羨ましい! とただ我が身を省みず、周りを見て嘆くだけでは、そりゃ寄る幸福も寄ってこないというものだ。

結局のところ、僕には僕という人間と、知り得た人との繋がりの中でしか恋愛が出来ないのだ。「あの人みたいに」……なんてことはあくまで憧れの中でしかない。

牧村さんがそうであったように、この先、自分という一人の人間を受け入れ、自分が何者であるか向き合う必要があるのだろう。「オタクだから」、「人見知りだから」という意識を捨てて。でないと、目の前の人物にすら誠実に向き合えないはずだから。

 

なんというか、書けば書くほど自分の考えの未熟さと文の稚拙さを思い知っている最中ですが、それも一つの経験だと思い、公開します。この本から元気と勇気を貰ったということも書き留めておきたかったので。

また読み返した時、「そんなこともあったなぁ」と未来の自分がもう少し前に進んでいることを期待します。

 

入間一間 「少女妄想中。」は実際百合だった

巷に聞く百合短編集である

入間人間 少女妄想中。

 

少女妄想中。 (メディアワークス文庫)

少女妄想中。 (メディアワークス文庫)

 

 

を読みました。


百合でした。ええ。
表紙が百合業界に大旋風を巻き起こしている仲谷鳩先生なことにつられてホイホイ買ってしまったのですが、実際百合でした。

しかしなんと言いますか、百合姫作品のようにはっきりと「「百合」」と主張するような空気はなく、振り返ると百合だった、そんな風に感じた話でした、
百合百合言いすぎて何を指しているのかはっきり分からなくなりそうですね。

一言で言います。

 

女と女の感情しかない

 

これです。

百合姫、つぼみ作品のような目線で見ようとして、真っ先に違和感を感じたのはここです。

基本、物語っていうのは、連続した日常の切り取りでできていると思います。
社会人百合だったら、日々の業務に追われる中で、学生百合だったら、学生生活の中で。
俗世という川の中できらりと光る「何か」。それを見つける「過程」「瞬間」を切り取ったもの。365日の中における1日。そういう風に出来ています。

でも、少女妄想中。は少し違いました。

 

例えば、冒頭の作品である「ガールズ・オン・ザ・ラン」。

最高速で走った瞬間のみ現れる「彼女」に、なんとかして追いつこうとする話。
幼少期に出会い、そこからずっと、たとえ社会人になっても追いかけるのですが、本当に「彼女」を追いかけることしか主人公の頭にはありません。部活に入ろうが、どこかに入社しようが、「彼女」に会うことしか考えてません。ただ走り続けます。

クラス内ヒエラルキー、部活をする意義、モラトリアム、会社における立ち位置、果てには自分の感情を共有する第三者――友人さえも、この物語を構成する上で、必要とされていません。


一人の女と、その子が意識している女。
この二つのみで世界が出来上がっています。


1日の中の1日、10日の中の10日、彼女に対する感情以外の人間的要素はきれいに切り離されているのです。

ただ、なんとなく、気になる。頭から離れない。行き先の分からないあやふやな感情を抱きながら、何ページも話は綴られていく。何とも不思議な感覚でした。

 

最近の百合作品でスポットが当たる、女が女に対する"""強い感情"""。

その真逆を行く、萌芽がゆるゆると伸びていくような、ごくちいさな感情。

「これ百合か……? 百合か……百合……うん、百合!」

少女妄想中。はそんなふわっとした話でした。

 

無限に広がる百合作品の、新たな一面をかいま見たように思えます。

穏やかな生活を望む穏健派百合厨も、熾烈な関係性を求める過激派百合厨も、ぜひ読んでみてください。

あなぐら日記 first

あなぐら団子です。その辺に転がっている百合厨やってます。

何の魔が差したのか、はてなブログなるものを始めてみました。

いやなんでしょうね、ツイッターという文明が今一つ自分に合ってなかったのかも知れませんね。

大多数の人に見られるツールでありながら、結局は内輪のニーズに応えるように立ち回ることが必要みたいな。

いやそれはフォローが沢山の人の話であって、自分みたいなそれこそ内輪で完成していたツイッターアカウントには別の話なのやもしれませんが。

何が言いたいかと言えば、発言するたび、一言一言を吟味して抑え込みながら発言している感じがして若干疲れたんだと思います。これは身体に毒ですね。まさにこんな世の中じゃポイズン。

という訳で、自分の中に溜まった何かを吐き出すツールとして適当に書き殴ると思います。なあに、ツイッターでは道化を演じ、芸人やってる人間だ。不特定多数をみだりに傷つける発言はしませんよ。多分。

これをそもそも見る人が居るか分かりませんが、ブログってそんなものでしょう。ツイッターでフォローしている方がこれ見てたら……まあ適当に聞き流してください。うん。

推敲とかしてないし見返したら相当アレな気がするけど、それも日記の味なんですよ(言い訳)

さて、そもそもの問題として、今現在、これを書いている時間が朝なんですよね。早速日記としての定義がブレつつありますね。

午後から就活のアレコレがあるんですが、スーツ着ながら書いてます。手元に鏡がありますが多分シュールなので見たくないです。シュウカツ!なんておどけてみたくなる人間の気持ちが少しわかったような気がします。

多分気まぐれなんで飽きるかもしれないし不定期でしょうが、ツイッターでは書かん事適当に書いてることは変わらんと思います。それでは。